赤城耕一 銀塩カメラ復興計画 第8回 ペンタックスSPの記憶2 ― 2011年10月21日 00時00分00秒
1週間ぐらい前にアサヒカメラ.netに連載中の赤城耕一氏の「銀塩カメラ復興計画」が更新されていたようだ。
赤城耕一 銀塩カメラ復興計画 第8回 ペンタックスSPの記憶2(アサヒカメラ.net)
前回が8月の下旬だったから、同じカメラの記事の続編としては珍しく2か月も空いたことになる。
何度も書いたが、私が最初に使った一眼レフカメラがPentax SVだったので、Pentax SPには親近感がある。ただ、デザインなどはSVとSPとの間に大きな違いがあって、SPは洗練されている。SVはそれ以前のAsahi Pentax APのデザインを継承しているのだった。
赤城耕一氏のこの記事を読むとなんだかこの時期のPentaxのカメラに愛情を感じないねぇ(笑)。記事にもあるように、大口径レンズではピントの山は見易いが、少し暗いレンズになると暗くてピントが見えないファインダーだったし、視野率も低いので、一眼レフとしての意味が問われてしまう面がある。私もPentax SVでsmc Takumar 200mm F4を使っていたが、暗いのでマット面でピントが合わせにくく、主に真ん中のマイクロプリズムでピントを合わせていた。
この時期のM42マウントのPentaxカメラだと、Pentax SLが欲しいなぁ。そのあとのPentax MXの方が好きだが。ちなみにPentax SVを使っていた当時はKマウントのPentax MEが欲しかった。Kマウントになる直前のM42マウントのPentaxは似たような機種がたくさんあって、しかも先祖返りしたような機種もあってなんだか分かりにくい。まあ今となってはどれも同じようなものだ(笑)。当時のPentaxのカメラを触ると、同じ時期のニコンのカメラがどうして値段が高かったのかよく分かる。まあPentax SVでもアマチュアが記念写真撮るには十分すぎる性能があったのだが。
ESIIのシャッターダイヤル低速側のマニュアルシャッターを思い切って省略。暗いところでは、絞り優先AEをなるべく使ってね、ということらしい。が、少々疑問である。低速シンクロとかするときは困ると思うんだけどなあ。
たしかにそうだが、当時はストロボとかフラッシュとかそんなに一般人は使ってなかったように思う。フラッシュバルブなんか1回使ったら燃え尽きてしまうので結構コスト掛かるもの。そういえばうちにあったミノルタの110カメラはキューブ状のフラッシュバルブで、撮影すると回転して4回発光できるものだったなぁ。いまよりも1枚の写真にすごくコストが掛かっていた時代だ。ピッカリコニカ以降コンパクトカメラにエレクトロニックフラッシュが内蔵されて、素人はピカピカ光らせて撮るのが主流になっていったように思う。
【関連】
赤城耕一 銀塩カメラ復興計画 第7回 ペンタックスSPの記憶 ― 2011年08月26日
写真は記事とは関係ない。
調布名物(東京都調布市):CONTAX G1、Carl Zeiss Biogon T* 21mm F2.8、F8AE、Kodak New PORTRA 160、Kenko L37 Super PRO、Nikon SUPER COOLSCAN 5000 ED(ICEなしGEMなしROCなし)
電車の中からも目立っているお店。入ったことはない。このお店、天井や入口の扉がどうも低いような気がする(笑)。内部がどうなっているのか気になるのでこんど潜入してみたい(笑)。ちなみに調布市と「田園調布に家が建つ」(by星セント・ルイス)の田園調布(東京都大田区)とはまったく別の場所である。さらにちなみに大田区は「大田」であって「太田」ではない。旧東京市の大森区と蒲田区が合併してできたので大森・蒲田で「大田」なのだそうだ。大学に入ってサークルのOBにハガキを出すときに間違えて「太田」と書いて先輩に怒られた記憶がある(笑)。
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