日本で最初に稼働した電子計算機FUJIC ― 2009年07月08日 00時00分00秒
カメラニュースネタもなさそうなので、おとといの記事の写真のMARSの横に展示されていた富士写真フイルム(現富士フイルム)の電子計算機FUJICとそれに関連した富士フイルムの記事を紹介したい。
写真のFUJIC(国立科学博物館)の説明書きには以下のようにある。
日本で最初に稼働した電子計算機
真空管式計数型電子計算機FUJIC1956年 クロック30kHz 使用真空管1700本
加算0.1ms 除算2.1ms 寄託:早稲田大学レンズの設計には膨大な計算が必要だった。富士写真フイルム株式会社の岡崎文次は、レンズ設計の自動化を考え、7年かけて1956(昭和31)年にFUJICを完成させた。これが日本で初めて稼働した計数型電子計算機となった。計算速度は人出の約2000倍になった。
写真の後ろに見えている突起みたいなのは全部真空管である。1700本あるらしい。実はもう一度国立科学博物館に行ってきたのだが、特別展の開催されていない時期だったので空いていたし、ICカードも借りられたし、色々な意味でよかった。特別展「インカ帝国のルーツ 黄金の都シカン」が2009年7月14日から10月12日まで開催されるので、しばらくまた混雑するのだろうか。
それで、昔のレンズ設計についてインタビューした記事が富士フイルムのマカロニ・アンモナイト内にあるのでリンクしておく。
写真用レンズをつくる人たち 富士写真光機を訪ねて
─── 70年代の当時と今とではコンピュータの演算速度がまったく違うはずですが、レンズ設計に要する時間はどれくらい差があるのですか。
●大野:「劇的に縮まった」と言いたいところですが、実はそれほど差がないのです。
●片桐:昔に比べて設計の条件がより複雑で高度になって、計算の項目が飛躍的に増えていますから。具体的には超小型で薄型のズームレンズの開発などです。
http://ammo.jp/monthly/0301/03.html
インタビュー先の富士写真光機株式会社は、2004年10月にフジノン株式会社に社名変更している
真空管式計数型電子計算機FUJIC(国立科学博物館):GR DIGITAL、28mm相当、F2.4開放、1/18sec、ISO154、プログラムAE、-0.3EV
コメント
_ ノーネームしたん ― 2009年07月08日 21時25分01秒
_ Haniwa ― 2009年07月08日 22時03分02秒
アメリカはすごいですねぇ。戦後すぐに進駐軍がきてブルドーザーやパワーショベルに驚いたと聞きましたが、そんな感じでしょうか。
後藤哲朗氏のインタビュー来ましたね。
http://dc.watch.impress.co.jp/docs/news/20090708_298751.html
含蓄が多くて簡単に記事にできなかったので明日以降扱います。後藤氏が頑張って機械連動の必要性を熱く語って欲しいです。
_ ちいちゃん ― 2009年07月08日 22時38分40秒
入社したときの課長が「おれもドライバーを持ってプロミングしたもんだ」って自慢していました。
当時はワイアードロジックでしたからね。プログラミングは回路をつなぎ変えてハードでプログラミングしていたそうです。
私が一番古いのはUNIVAC3ってトランジスター式コンピュータのソフトをUNIVAC1110の上でエミュレートして動かしていました。
アセンブラの文法書がすでになくなっている時に固定資産システムの業務知識と吐き出されたUNIVAC1110のアセンブラプログラムを見ながら強引に修正していました。
今考えると無謀ですよね。
あれって四半世紀前の25歳の独身最後の日そして新婚の時のことでした…
_ ノーネームしたん ― 2009年07月09日 01時40分00秒
実はHaniwaさんのブログ見る前に見たのですが、明日とかに書くのかと思い触れなかったのですが・・・・・・。
謎の組織の全容が分かる日も・・・・・近い!、裁きの日も近い!!。
_ Haniwa ― 2009年07月09日 08時34分36秒
大先輩ですね。私が知っているのはカードにパンチしてプログラム書くぐらいですね。ワイアードロジックってすごいですよねぇ。ハードだけでなく、博物館にそういう時代の先達へのインタビューとかアーカイブしておくべきだと思います。
■ ノーネームしたん様
ご配慮ありがとうございます。後藤研究室って何人ぐらい所属してるんでしょうね。
>今、市場でユーザーがどんなことを考えて、どんな使い方をしているのか。そこが見えなくなると、判断を見誤ってしまう。その側方支援を行なう組織が後藤研究室です
このブログを見てニコンユーザーの多くがリバースリングでレンズを逆付けして使っているとか思って、判断を誤ったりして(笑)。
_ ノーネームしたん ― 2009年07月09日 22時01分31秒
それなら、Haniwaさんは東京湾に、戦艦大和、武蔵を引き連れて、94式40サンチ砲を・・・・・・、後方支援(後弾)でも・・・(嘘)、リバースリングはたまに使いますが、やはり絞りリング付きレンズは、ありがたいです。
_ Haniwa ― 2009年07月10日 09時34分53秒
私が後方支援に回ると、「後ろからタマが飛んでくる」ことになるかも(笑)。
絞りリングのないレンズは「家電レンズ」と呼ぶことにしますか。なんか家電屋さんに悪いような気もしますが(笑)。
_ 無名戦士 ― 2010年12月08日 13時33分12秒
戦時中の日本の電子計算機開発について、陸軍技研本部の指揮で技研本部国分寺支所、陸軍経理学校、陸軍翻訳班、陸軍地理調査所、日本無線によって進められ、サブミニ真空管1900本で冷蔵庫大の大きさで30台ほど作られ稼働していた。戦後米軍はそれらの廃棄された残骸を収集するため、それらの場所を掘り返し、小学校のグラウンドまで掘っていました。日本無線系の技術者が参加して富士フィルムのハニワが作られたと聞いています。実用的には日本が進んでいたそうで、平均故障時間900時間以上を達成、ENIACの4時間(実用困難)に比べ実用段階にあった。ともと、郵政省電波研究所の方や、それに参加していた元陸軍軍人の方や経理学校OBの方から聞きました。戦時中の隠された秘密です。同様にトランジスターの開発も東北大学と国分寺支所、日本無線で行われ硬(甲)水晶とよばれ、接合型FETトランジスターだったそうです。接触型Geトランジスターはドイツで作られ、米国のショックレーはそれを理論的に発表しただけ、戦前はリレー式計算機を陸軍は昭和8年ごろから13年ごろまで行いその後真空管式に、ドイツは放電管を使っていたそうです。日本のは計算方式は6ビット×2と言う独特のものだったそうです。情報まで。
_ Haniwa ― 2010年12月08日 17時08分39秒
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貴重な情報ありがとうございました。戦争が拡大しなかったら、日本の技術はもっともっと進んでいたかもしれないんですね。
これだけ真空管がたくさんあったら1本切れたら探すのに困りそうだと思ったのですが、真空管って切れたりすると黒ずんだり不透明になったりするので、意外と故障箇所を見つけやすいかもしれないと思ったりしました。
国立科学博物館はまた行きたいですね。これ、親戚のこどもなどを連れて行くと、興味ある子とない子にはっきりと分かれますね。なんとか興味持たせようとしています(笑)。サブリミナルのようにじんわりと効いてくればいいのですが(笑)。夜寝付けないときにFUJIC計算機がフラッシュバックするとか(笑)。
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あの時代に、コンピュータまでレンズのために作ってしまう情熱!、Ai連動機構を付けられないとかいう会社に10分の1でもこの熱意があれば・・・・・、岡崎 氏が7年かけて試作!、1957年に通産省(痛惨症?)がリレーを使った試作機マーク4とか、でも、1956年、アメリカ800台ぐらいコンピュータ有ったらしいけど・・・・・。