デジカメが記憶にもたらす変容(日経BP) ― 2008年11月13日 00時00分00秒
デザイナーの益田 文和氏の日経BPでの連載第33回はデジカメが記憶にもたらす変容だ。
実際に使ってみると、フィルムカメラとデジタルカメラはその構造以上に、「撮る」という行為と意識において別ものであることに気付く。
フィルムカメラの場合はまず、考えてから撮る。その結果、シャッターを切った瞬間のイメージは良くも悪くも、ほぼその通り写っている。それに対し、デジタルカメラの場合は撮りながら考える。シャッターを押すと、目の前にある現実の世界が、複雑な電子回路やプログラムの解釈を経て、瞬時に別の1枚の絵となって現れるのだ。
さらに、その解釈はカメラによって異なる。だからモニターに映し出された画像に「おっ」と驚くことがある。そうして、私の頭の中には現実のイメージと仮想のイメージという“二重の記憶”が蓄積してゆく――。
これは写真の世界に限ったことではない。映画の特撮やゲームのCG、インターネットで配信される情報は、現実の世界以上に“リアル”な視聴覚体験として強い刺激を記憶に残す。今や“現実の記憶”は、加工された情報のノイズにかき消されてしまいそうだ。
文化とは集団の記憶の蓄積だと定義するなら、現実とかい離した記憶で作られる文化がサステナブルであるはずがない。デジタル情報が良いとか悪いとかではなく、問題はその莫大な量にある。
果たして長い時間を経た後に残っているのは、実像の世界と虚像の世界、どちらのイメージだろうか。
デジタルカメラも段々と様々な面でフィルムカメラと違うということが意識されるようになってきた。わたしとしてはデジタルも好きなんだけれども、デジタルカメラ(とくに一眼レフ)はもう少しカメラとしての基本性能にコストを掛けて欲しいと思う。記事で紹介されているレチナほどとは言わないにしても。
そしてフィルムにはフィルムのよさ、あるいはフィルムカメラの良さがあるので、フィルムが長く供給されるように願う。
写真は記事とは関係ない。
雲の切れ間:Nikon F-501、Ai Nikkor 35mm F2S、F5.6絞り優先AE、DNPセンチュリア400、L37C、Nikon SUPER COOLSCAN 5000ED
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